その後、勇太は午前中一杯提出書類の作成を無理矢理手伝わされた。
その後、勇太は午前中一杯提出書類の作成を無理矢理手伝わされた。



……はー、疲れる


地下二階の階段下、一番お気に入りの隠れ家で背伸びをする。地下にある為か冬でもかなり暖かく、そして少しだけ薄暗い空間は、ほっとできる場所の一つ。



眠い……


三限が有るからと言って何とか兄の研究室を抜け出してきたのは良いのだが、眠い上に書類作成で肩が凝ってしまっている。授業に出る気が全くしない。



腹減った……


更に悪いことに時間が悪く、カフェテリアが混んでいて昼食にありつけなかった。後五分ほどで三限が始まるが、こうなったらサボるしかないだろう。
床が冷たいので上着を敷いた上に座り、背負っていたギターを取り出す。
この場所でギターを弾くと、音波が壁や空間で微妙に共鳴してなかなか味な音色になる。これがこの場所が好きな理由の一つだ。そしてもう一つの理由は。



……あ、勇太さん


頭上からの声に、ギターに触れかけた手を止める。
階段の隙間から上を覗く。地下一階の手摺から半ば身を乗り出すようにした丸顔の顔が、確かに見えた。



木根原


この隠れ家の第二の利点は、ここに居れば他人からは容易に姿が見えないこと。だが今の木根原のように階段から身を乗り出されては折角の利点もパアだ。ていうか落下の危険を考慮しろ。勇太は思わず口を開いた。



木根原!


だが、勇太が注意を促す前に木根原の姿は勇太の視界から消え、続いて階段をパタパタと下りる音が聞こえてきた。
そしてすぐに、小柄な身体にシンプルな服を着た少女が現れる。



ここにいると思った


多少照れたような明るい声が、勇太の耳にくすぐったく響く。
そう言ってから、木根原は肩に掛けていた図書の本を入れる布鞄から黄みがかった封筒と小さなワックスペーパーの包みを取り出し、勇太の方に突きつけるように差し出した。



あ、あの、……これ


これは。内心の喜びを押し隠し、差し出されたものを受け取る。
中身が何かは、分かっている。クリスマスカードとクッキー。両方とも木根原お手製のもの。



……どうも


気恥ずかしさで、お礼の言葉が出てこない。
二つの包みを手にしたまま、頷くのがやっと。
それでもどうにかして、顔を上げると、耳まで真っ赤にした木根原の顔が、確かに見えた。



……ありがとう


何とかお礼の言葉を口に出す。



ううん


勇太の声に、木根原はこくんと一つ頷くと、くるりと身を翻し勇太に背を向けた。
そして現れたときと同じように唐突に、木根原は勇太の視界から消え、代わりに階段を上がる木根原の足音が勇太の耳に響いた。



また、来年


遠くに響く木根原の声に、頷いて手を振る。おそらく木根原は、明日には実家に、日本海側にあるあのこざっぱりとした旅館に帰るのだろう。
足音の響きがすっかり消えてから、勇太は一つ息を吐き、ギターを取り上げて弦に指を沿わせた。



俺、こんなに臆病だったか?


同性とは一対一でも堂々と話せるし、異性と一緒でもグループで話しているときは軽口が勝手に口をついて出てきてくれるのに、異性と一対一では何を話していいのか分からなくなる。
木根原に対して何も言えなかった自分のふがいなさに、今更ながら腹が立つ。
ギターから出る音も短調ばかりだ。ギターを弾く手を止めると、勇太は今度は大きく、溜息をついた。
と。



……なんでそんな暗い曲ばかり弾いてるのよ


不意に頭上から女の鋭い声が降ってくる。
この声も、知っている。勇太は物憂げに顔を上げた。



ずっとギター弾いてて、飽きない?





その台詞、『ギター』を『コンピュータ』に差し替えたら見事にブーメラン、なんだけど


階段の隙間から、さっきより細面の顔が覗いている。勇太達と同じ『歪みを識る者達』、勇太より一学年年上の、数理工学科きっての才女、三森香花だ。
すぐに香花が、勇太が居る場所にまで降りて来る。
勇太の目の前に立った香花は、木根原とは対照的な女性だった。
無造作に束ねられた真っ直ぐな長い髪、細身の身体に似合った、流行に沿った服装。手にしている小さく頑丈な鞄には、小さいが高性能のノートパソコンが入っているのだろう。
兄である雨宮准教授と同じく、計算によって『歪み』を修整することができる。それが、香花の力。



三限は?


ぞんざいな口調で香花が訊く。
飛び級で帝華大学に入った香花は、学年では勇太より上だがもともと勇太より一学年下という、ややこしい存在。しかも早生まれなので実際の年で言えばまだ十九、すなわち木根原と同い年である。
そんな香花だが勇太に対してだけは知識と素養の面に関して『認めて』いないらしく、兄貴や勁次郎はともかく木根原に対してよりも冷たい口を利く。いつもならそんなことは簡単に聞き流せるのだが、心が鬱な今日は少しだけむっとする。



サボり


それでもこいつと争う気は無い。
清楚な見かけから隠れたファンが多いという噂の香花だが、勇太より語彙が多い香花と争えば傷付くのはこちらだ。
だから。勇太は内心の腹立ちを押さえた声で一言だけ、口にした。



ふーん


その勇太に香花が発した言葉には、明らかに勇太を馬鹿にした雰囲気が含まれていた。
だから、というわけでは無いが。



あんたこそ三限は?


何とかそれだけ反撃する。



休講
四限目もね


香花の声は明らかに勝ち誇っていた。



だから雨宮先生のところへ言って手伝いをするつもり





……あら


不意に香花の口調が変わった。



あなたももらったのね、クリスマスカード


膝の上に置きっ放しにしてあった木根原からのクリスマスカードを、香花の細い指が拾い上げる。



返せよ!


木根原からもらった大切なものを、取られるわけにはいかない。勇太は香花に向かってさっと手を伸ばした。



そんなにむきにならなくても


その勇太の行動に心底呆れたのか、香花はカードを投げるように返してよこした。



私ももらってるし


小さな鞄から、勇太がもらったのと同じ黄みがかった封筒を出し、香花が兄と同じ表情を見せる。
その表情に再びむっとした感情が起こり、勇太は香花をきつく睨んだ。香花の表情も行動も、天敵である兄に似ている。そのことが、勇太の苛立ちを倍増させていた。



……そうだ
あなたに用があったの


だが、これも兄と同じように勇太の視線を総無視して、香花は取り出したばかりのカードをバッグにしまう。
そして徐に、鞄から茶封筒を取り出し勇太の膝に落とした。
小銭の音が、小さな空間に響く。



何だ、これ?


訝しそうに尋ねる勇太を尻目に、香花はさっと向きを変えると階段を上り始めた。



やることはその中に書いてあるから





え?


当惑する勇太を置いて香花は階段を駆け上がっていく。



ちょっと、三森!


勇太の叫びは階段の吹き抜けに空しく響いた。



……何だよ


勇太はふっと溜息をつくと、床に座り直して茶封筒をひっくり返した。
中から出てきたのはお金と、半分に折りたたまれた紙切れが一枚。



……指令、書?


その紙を広げて読み出した勇太は中に書かれていた事に絶句した。



何だ、これ……?


