くそっ……!

鷹丸は苦悶の表情を浮かべながら、
鎖の絡む己の身体を引きずる。

それでも負けじと、牢の片隅に
腰を落ち着けると、じろりと
御厄様を睨みつけた。

御厄様は、相変わらず
表情ひとつ変えぬまま
淡々と酒をあおる。

どうした、もう終わりか?

……休憩だ、休憩

鷹丸はわざと肩をすくめ、
息を整えながらゆるりと口を開く。

なぁ、御厄様(おやくさま)よぉ……なんで福米屋なんぞに捕まったんだ?

——あんたほどの力があれば、誰にも縛られることなんざねえだろうに

その問いに、御厄様は静かに
杯を揺らし、ふっと目を細めた。

……ワシは普通の猫たちに力は使わんからのう

なんで使わねえ?

御厄様は杯の中の酒をじっと見つめる。

ゆらり、ゆらりと、酒の波が揺れる。

そして、ぽつりと呟いた。

かつて、この手で命を奪うたことがあるゆえじゃ

なんだよ、それ……

牢の中に、ふいに冷たい沈黙が落ちる。

御厄様はゆるりと目を閉じると
ゆっくりと語り始めた。





遥か昔、深き山の奥——。

御厄様は、小さな祠に祭られていた。

山の麓に暮らす村の猫たちは
年に数度、米から醸した酒を
奉納し豊穣(ほうじょう)と
安寧(あんねい)を願った。

御厄様も、村の猫たちの願いを
受け、黙して祠に鎮座していた。

この村は米どころとして知られ
毎年豊かな実りを得ていた。

村の者たちは、静かに
穏やかに、日々を送っていた。

その村に、ひとりの娘猫が
おった。名は「カヨ」

幼き頃より、カヨは御厄様に
酒を供え、祠の前で歌い
舞を踊った。

寂しくなかですか、御厄様?






そう言いながらひとり祠の前で
過ごしていた。

しかし——ある日、戦が起こった。

村を狙う者たちが押し寄せ
戦火は広がり、赤い炎が
夜空を焦がした。

村の猫たちは次々と斬られ
焼かれ、血と土にまみれて倒れていく。

生き残ったのは、わずかばかり。

その中に、カヨがいた。

瀕死の身で山を這い、傷ついた
身体を引きずりながら
カヨは御厄様の祠の前にたどり着いた。

……御厄様……どうか……どうか、お助けください……

娘の声は震えていた。

体は冷たく、かすかに息を
するだけの状態だった。

それでも、カヨは幼い頃から
変わらぬ敬意を込め、かすれた声で叫んだ。

……御厄様……!

御厄様の胸に、鈍い痛みが走った。

この娘は、幼き頃より己に仕え
共に時間を過ごした唯一の存在。

しばしの沈黙の後——御厄様は
低く静かに言った。

——我を、祠より出せ

カヨは震える手で、御厄様の
祠の扉を押し開けた。

刹那、夜空が揺れた。

御厄様は、祠より立ち上がり
麓の村を見据えた。

そこには、火の海と化した村があった。

…………

御厄様の目が細められる。

次の瞬間——

空が裂けた

轟音(ごうおん)とともに、
無数の稲妻が大地を貫き、
戦を仕掛けた者たちを薙ぎ払った。

叫び声すら上げる間もなく、
すべてが雷に焼かれ、消えた。

……だが

雷の爪は、村全体をも飲み込んでいた。

火に焼かれなかったはずの家々も、そこにいた村の者たちも——

すべて、無へと帰した。

御厄様は、はっと息を呑む。

後ろを振り向けば——。

そこにいたのは、祠の前で膝を
折るカヨ

彼女は、力なく地に手をつき、
かすれた声で呟いていた。

お、おらの村が……おっかぁ……おっとうが……

瞳に浮かぶのは絶望。

その顔は、御厄様がかつて見た
どの表情よりも悲痛だった。

カヨは、震える手を伸ばし
御厄様の袂を掴む。

そして、言葉にならぬ
嗚咽(おえつ)をあげたまま——

…………

力なく、地に伏し息絶えた。

御厄様は、静かに彼女を見下ろした。

己が力を使ったことで
何を得たのか——何を失ったのか。

後悔と共にその手は震え
御厄様は再び祠の中へと戻った。

その日以来、己の力を封じることを誓った。





鷹丸は思わず息をのんだ。

……なんだそりゃ。結局、あんたが皆殺しにしたってことか?

御厄様は無表情のまま
ただ静かに杯を傾ける。

……そうじゃ
わしの手で焼き尽くしてしもうた

カヨを……守りたかったのじゃ。ただ、それだけじゃ。あやつらが村を襲い、娘を殺そうとした。わしは怒りに呑まれた。あの者どもを討とうとしたのじゃ……

湿った石壁に囲まれた
地下牢では、一本のろうそくが
かすかに揺れ、その明かりが
御厄様と鷹丸の影を歪ませていた

虫の声も届かぬ静寂の中
響くのはただ——御厄様の低い声
のみであった

じゃが、気がつけば……わしの雷は、敵も、村も、みな焼いてしもうた。守るはずの娘の居場所すら、灰にしてしもうたのじゃ……

その目には、深い悔恨の色が浮かんでいた。

雷を呼ぶほどの力を持ちながら
ただ一人を救うことも
できなかった妖の涙が
静かに地へと落ちた。

……それが、ワシが力を使わん理由よ

そんな話、聞いたことねぇな……まるで雷神だ

牢内の空気が重く沈む中
御厄様は酒をひと口
またひと口と飲み干し——

無表情のまま、ふっと鷹丸を見た

だから、こんなところに捕まっちまったってわけかい

鷹丸は苦笑いしながら
痛む体を引きずり壁にもたれかかった。

御厄様は静かに盃を傾ける。

ああ、ここの者はの……毎日、酒を供えてくれる。それが心地よくて、
気づけばこの屋敷の主に縛られ、とうとうワシの本体は封じられてしまった

……なんだよそれ。本体ってのは、どこかに閉じ込められてるってのか?

御厄様は盃を揺らし
ふと寂しそうな顔を見せた。

——じゃが、お前がいる。お前は、なかなか死なんようじゃのう

つまりよ、俺が死ぬまで、ここで見張るってわけか?

それもまた、悪くなかろうて

ははっ、いいぜ。じゃあ、付き合ってもらおうか!

鷹丸は盃をひったくるように
手に取り、くいっと飲み干す。

そして、不敵に笑いながら言った。

だがな、俺のばあちゃんは三百年も生きた大化け猫だ
それくらいの付き合いをする覚悟はあるんだよな

御厄様は盃の中をじっと見つめた。

琥珀色の酒が揺れ、ぼんやりと
自らの顔を映し出す。

三百年もの間、ここで閉じ
込められたまま過ごすとしたら——。

一瞬、過去の記憶がよぎる。

あの娘が祠の前で笑っていた頃。

賑やかだった村の祭り。

山の木々が四季折々に姿を変え
それを遠くから眺めていた日々。


だが今はどうだ。

福米屋に囚われ、ただ酒を飲み日々をやり過ごすだけの存在。

御厄様は小さく息を吐き、
寂しげに笑うような
しかしどこか諦めの滲んだ表情を浮かべると
御厄様は盃の中をじっと見つめ、

三百年か……それは長いのう

とぽつりと呟いた。

なぁ、御厄様。俺はな、世間じゃ煙たがられてる厄介者だ。誰も俺のことなんざ気にも留めねぇ。
でもよ、暇だけはあるし、お前の酒にも付き合ってやらぁ。

それに、この頑丈な体があれば、お前が寂しがることもねぇだろ?

……どういうことじゃ?

鷹丸はにやりと笑い
御厄様の前に盃を差し出した。

だからよ。俺と一緒にここを出ろってこった

牢の奥、ろうそくの炎が揺れた。

盃と盃が静かに触れ合い
かすかな音を立てた——。

御厄様の封じられし力

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